● 天夢航海 ●




 少女は闇を見つめていた。
 陽の下にあれば艶やかに輝くそのブロンドも、まろく白い肌も、全て塗りつぶしてしまう漆黒。
 ―― 知っている。
 彼女は呟いた。
 私はこの闇をよく知っている。忘れられはしない。
 永遠の離別をもたらす闇。何もかもを奪い、彼女を大切なものから遠く隔てていく。侵食が広がり、心の隅々まで埋め尽くしたその時、無という終焉がやってくる ―― それは確かな予感であり、真理だった。
 しかし今、闇が覆い隠そうとしているのは彼女自身ではなかった。
 この闇から彼女のことを救い出した少年が贄となっている。彼女を捕らえそこねた代償を求め、鬱憤を晴らそうとでもするかのように、闇は牙を剥く。
 だめだと彼女は叫んだ。言葉にはならない。届かない。わかっている。それでも精一杯手を伸ばし、声を限りに叫ぶ。
 闇に渡してはならない。連れ去らせるわけにはいかない。
 彼女に光を取り戻してくれた彼を。
 立場や肩書きではなく、彼女を彼女そのものとして初めて認めてくれた彼を。
 そして、それらの理屈とは無関係に湧き起こる、強い思いを与えてくれる彼を ―― このまま行かせてはならない。喪失を許容できはしない。
 ―― あきらめないで。
 自分に言い聞かせる。
 まだできることはあるはず。
 それを教えたのは、他ならぬ彼なのだから。
 彼女は少年の名を呼んだ。


「……クロノ……!」
 唇から滑り出した言葉は、心細くかすれていた。いつのまにか泣いていたようだ。
 だが、間近にいた彼の耳には充分に届いたのだろう。呼応して、彼女の名を返す。
「……マール?」
 気遣わしげな声音だった。
 マールはそこで目を覚ました。
 上下逆さまに覗いたクロノの顔と、その背後に広がった青空が視界を満たす。涼やかな風が涙に濡れた肌をくすぐり、髪をゆるく梳いていった。鼻先には土の匂いと草いきれが薫り、自分が草原に寝転んでいるのだと知れた。
 マールは数回まばたきして上体を起こすと、そばに座り込んでいたクロノの胸元に額をうずめた。
 クロノが慌てたように息を呑むのが聞こえたが、払いのけられたりはしなかった。
 やがて、小さな吐息とほのかに苦笑する気配が伝わり、マールの背に静かに手が置かれる。
 とくん、とくん、と互いの心音が鼓膜を穏やかに震わせ、彼女の粟立った感情をなだめていく。
「―― ここに、いるよね?」
 そっと囁いた。くぐもって聞こえにくかったのか、クロノからは疑問符が返ってくる。
 マールは言い直した。強く、思いを込めて。
「クロノは……ここに、いるよね?」
 彼女を抱く手が、泣きじゃくる赤ん坊をあやすように背を叩いた。
「ああ。……オレは、ここにいるよ」
 優しい声。優しい言葉。
 思えばあの時も ―― かつて彼女が闇から解放された時も、クロノはこうして同じように落ち着かせてくれたのだった。
 でも、さっきまで闇に囚われていたのは私じゃなく、クロノだったのに。……彼は、優しい。優しくて、優しすぎて、また泣きそうになってしまう。
 涙が溢れるのをごまかすために、マールは瞳を閉じた。
 あたたかな体温に包まれて、彼女の意識は闇に溶けた。


「…………ル! マール!!」
 眠りを乱す、声。
 目をゆっくり開き、起き上がる。
 瞳に飛び込んできたのは白だった。一面の白。雪の舞う銀世界。闇とは真逆のもの。
 記憶が錯綜する。
 闇はどこへ消えたのだろう。
 ここはどこだろう。
 ……それに、何より。
「クロノ……クロノは、どこ?」
 迷子が母親を求めるように、マールは呟いた。我ながらひどく頼りない ―― ぼんやりした心のどこかが密かに自嘲する。
 白の景色の中には仲間たちがいた。
 みな心配そうな顔で ―― 魔王だけは感情の読みにくい視線を向けていたが ―― こちらを見ている。さっき呼びかけていたのはどうやらルッカだったらしい。いちばん近くにいたのは彼女だった。カエルやエイラ、ロボもいる。だが、クロノだけがどこにもいない。
 マールの口にした疑問には、誰も答えなかった。お互い顔を見合わせ、沈黙を保っている。
「ねえ、クロノは?」
 もう一度くり返す。
 ―― さっきまでそこにいたのに。
 そう続けようとするのを、しかし、魔王の言葉が遮った。
「……奴を生き返らせるために」
 それは独り言かと思えるほどに低かったが、不思議と通る声だった。
「おまえは、今、進んでいるのだろう?」
「――― !」
 防寒着の合間から肌に触れる雪と、同じだけの冷たさを含んだ言葉とが、彼女を確かな覚醒に導いた。無意識に握りしめた手の中で、雪の欠片がきしんだ。
 はっきり思い出す。
 ここは死の山だ。
 山頂を目指す途中、足を滑らせ ―― 崖下に転落した。
 自分の手足を見回す。怪我らしい怪我がないのは、積雪が衝撃を和らげたということもあるのだろうが、もしかするとカエルかロボが癒してくれたのかもしれない。
 その様子を見て、ルッカとカエルが魔王に対して非難じみた目線を送った。
 正しいが、配慮に欠ける。そう言いたそうだった。
 だが、マールは感謝していた。夢に漂うのではなく、今、本当にやらなければならないことを彼は改めて自覚させてくれた。
「そう……進まなくちゃ、ね」
 言って、立ち上がる。
 多少力は入りにくいものの、歩けないほどではない。
「……大丈夫?」
 ルッカが優しく尋ねてくるのに、しっかりうなずいてみせる。
「うん。大丈夫だよ」

 ―― 大丈夫。
 きっとあの温もりは、遠くない未来。

 良い夢は人に話さなければ本当に叶う ―― そんな迷信にすがるわけではなかったが、マールは胸中で一人ごち、歩き出した。
 夢を、正夢に変えるために。


 −END−



<オマケのあとがき>

(1)夢と現実が混ざり合うような話が描きたかったんですが、雰囲気小説と化しててわかりにくいだけ……かも……;; ええと。フィーリングでわかって下さい(無理)。それにしてもマール視点で書くのってえらい久々で、自分としてはある意味新鮮でした。性懲りもなく死の山ネタではありますが! 大好きだし使いやすい題材なんですよー。

(2)『死』を実感として自分の肌で知っているのは、誰よりマールだろうと思います。もっとも、彼女が味わったのは歴史からの消滅なので、実際的な肉体の消滅とはまた違うのでしょうけど。あ、ちなみに本編小説のエピソード11と若干リンクしてます。ゲームの方では別にマールが中世でクロノに抱きついたという事実はありませんし。ちっ。(…)

(3)そこはかとなく魔王がおいしいとこ取りしてる気がしますがそれは気のせいということにしておきます。……以前に比べるとずいぶん私の中で彼の存在感がアップしてるっぽいです最近。



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