● エピソード5:見知らぬ地、見知った名前 ●




 そこには上下も左右もなかった。上昇しているような、落下しているような、ただ宙を漂っているような、奇妙な体感ばかりがあった。
 ほんの一瞬とも、途方もなく長い時間ともつかぬ移動は、唐突に、何の前触れもなく終わりを告げた。歪みはいつしか消えていた。気がつけば、クロノは確固たる意識を取り戻し、揺るぎない大地を踏みしめているのだった。
 ―― ここは……?
 クロノは辺りを見渡して、ひとつ身震いをした。祭りの空はあんなに清々しく晴れ渡っていたのに、ここでは空全体がまるで巨大な翼に覆われてしまったように曇っていて、ひどく肌寒いのである。
 彼の立っているのは切り立った壌土とあまり背の高くない広葉樹がまばらに囲む、なだらかな起伏の草原だった。だが、眼下に小さく屋根のようなものがいくつも点在していることから、山の中腹らしいと推察できた。
 マールはどこだろう、と思ったその時、後ろの方の茂みが音を立てた。
「マール?」
 振り向いて、クロノは目を見張って立ちすくんだ。
 そこにいたのは少女とはおよそ似ても似つかないものだった。青白い肌、つるりとした頭、とがった耳朶。人間の子供に似た、しかし人間ではない異形の生物 ―― 魔物!?
 そいつは蛇が威嚇する時のような奇声を発し、いきなり襲いかかってきた。喉元を狙った牙の一撃をクロノがすんででよけると、魔物はたたらを踏み、悔しそうに歯噛みした。振り返ったその目は血走った赤。
 クロノは迷わず木刀を抜き放った。
 地面を蹴たて、魔物がぱっくりと口を開けて飛びかかる!
「ぐあっ」
 苦悶の叫びが洩れた。折れた歯と赤黒い血をまき散らし、魔物が顔を押さえて転げ回る。クロノが、開いた口めがけて木刀で薙いだのだ。
 魔物は痛みにのたうち、憎々しげにクロノを睨みつけた。クロノは再び油断なく身構えた。
 だが、魔物はそれ以上攻撃を仕掛けようとはせず、茂みに身を躍らせたかと思うと、そのまま立ち去ったようだった。
 クロノはホッと息をつき、木刀を腰に戻して思わず座り込んだ。さっきまで薄ら寒かったのに、すっかり身体が火照っている。汗をかいた頬を撫でる冷たい山風が心地いい。
「はあ……。どうなってるんだ?」
 大の字に寝転んで、ため息をこぼす。
 魔物など、戦うどころか出遭うことすら初めてだった。昔の ―― 魔物が世に跋扈していた時代の ―― 生き残りが東方の大陸にいる、とは聞いたことがあったが、これまでついぞお目にかかったことはなかったのだ。
 それにしても、とクロノは苦笑した。ルッカの企みがこんな形で役に立つなんてな。木刀がなかったら、結構ヤバかったかも……
 と、そこまで考えたとたん、顔面から一気に血の気がひいた。慌てて跳ね起きる。……マール! あの子はそんな身を守れるようなものはおそらく何も持っていないはず。かといって、体術に長けているとも思えない。
 不吉な想像を必死に打ち消して、クロノは名を呼びながらマールの姿を探した。けれども、茂みの陰、木の上、岩の後ろ……辺り一帯をそれこそくまなく探索しても、手がかりさえ見つからない。
 最悪の可能性を示すものが見当たらなかったことに少しだけ安堵しつつも、彼は首を捻った。マールはどこへ行ってしまったのだろう? 助けを求めて山から降りたんだろうか。……それはいかにもありそうなことに思えた。もし自分が彼女の立場だったら、そうするに違いない。
 何にせよ、このまま黙ってここにいても埒があかないことは明白だった。
 ―― とりあえず、マールを探しながら山を降りよう。
 そう決めて足を踏み出したクロノの手元で、ペンダントの鎖が乾いた音を立てた。
(……このままだと邪魔だし、返す前にまた壊しちまいそうだな)
 腕からペンダントをはずし、服の下に隠れるように首からかけた。これなら、そうそう失くなったり壊れたりはしないだろう。
「よし、と」
 確かめるようにペンダントを軽く叩き、クロノは再び歩き出した。


 山道は幸いほとんど分岐のない一本道になっていた。マールが山を降りたのだとしても、行き違ってしまう心配はなさそうである。とはいえ、できる限り見落としがないように、あちこちに視線を彷徨わせるようにしてクロノは進んだ。
 そうしてしばらく行くうち、パッと景色が開けた。谷川だ。クロノの身長を七、八倍した高さの崖下に、五尋ほどの澄んだせせらぎが流れている。
 対岸までは木製の小さなつり橋が架かっていた。明らかに人の手によるもので、また、踏み板や綱の丈夫そうなのを見れば、さほど古い物でもないとわかる。ということは、やはりさっき上から見えたのは村か何かなのだろう。ここはその裏山といったところか。
 クロノは揺れて安定の悪い橋の上を足を踏みはずさないように慎重に、しかし容易く渡っていった。
 ……が、もう間もなく渡り切ろうかという時。
 きしゃあっ!
 奇声がして、背後から足元に何かがぶつかってきた。
「!?」
 瞬間、平衡を失った体がふわりと浮き、視界の隅に、欠けた歯を見せてあざ笑う魔物が映る。
(さっきの……!)
 思った時には、既にクロノの身体は宙に投げ出されていた。
「………っ!!」
 かろうじて橋を結ぶ綱に片手でぶら下がる。
 してやったと言いたげに赤眼を光らせ、よだれをたらした魔物が近寄ってくるのが見えた。このまま落とす気か、それとも喰いついてくる気か。
「そうはさせるかっ!」
 クロノは思いきり反動をつけて身体を振り子のように揺らし、橋板を蹴り上げた。
 つり橋が波打ち、間近までやって来ていた魔物が板の隙間から声もなく転げ落ちる。驚きに歪んだ顔が遠ざかり、直後、真下で派手な水しぶきが上がった。
「へん、ザマみ……っ!?」
 勝ち誇った笑みがひきつった。魔物が落ちる拍子に飛び散らかしたよだれに、綱を握る手がずるりと滑ったのだ。
 慌ててもう片方の手を伸ばしたが、指先は空しく宙を掻き。そして。
「うわあぁぁぁぁぁっ!!」
 谷底に叫びをこだまさせて、クロノは背中から川面に着水した。
 身を打つ衝撃に息が詰まり、そのまま彼は意識を失ってしまった……。


 気がついたのは、肩をつかまれ揺さぶられる感覚で、だった。
「……おい! あんた、しっかりしろよ」
 男の野太い声。
「おいったら!」
「………う………」
 クロノは重く鈍った頭をなんとか励まし、ゆっくり目を開けた。焦点はなかなか定まらなかったが、誰かが自分の顔を覗き込んでいるのはわかった。
「おっ、やっと気がついたか」
 その誰かの声に応じるようにクロノは二、三度まばたきをすると、頭を軽く振って上体を起こした。
「え…っと……。オレは、一体……」
 ぼんやり周囲を見回すと、ようやく慣れた目に、砂利の転がる川縁と葦、そして傍らに片膝をついて佇む男の姿が映った。
 男は三十路を少し越えたぐらいだろうか。口元に蓄えた明るいブラウンの髭と、生き生きとした空色の瞳が特徴的だった。
「あんた、ここに倒れてたんだぜ」
 男は立ち上がりながら、クロノの独り言のような問いに答えた。
「ま、正確に言うなら、そこの川岸にひっかかってた……だな。俺が引っ張り上げなきゃ、そのうち沈むか流されるかしてただろうよ」
 言われて、クロノは何があったのかを思い出した。
「あなたが助けてくれたんですか?」
「ああ。ま、そういうことさね」
 髭を捻って、男がうなずく。クロノは立ち上がって頭を下げた。
「すいません。ありがとうございました」
「なに、いいってことよ」
 飄々とした笑いを浮かべ、男は片手を振った。
「しかし、なんだってまた、川ん中にいたんだい? 服のまま水泳ってこともないだろうがよ」
「その……魔物が襲ってきて、それでつり橋から落ちちゃったんです」
 濡れた服を着たまま絞りつつ、クロノは決まり悪そうに答えた。
「はぁん、魔物か。最近じゃここらのも凶暴になってきたらしいからな」
 言って、男は背を向け歩き出した。
「じゃあな。これからは気をつけるこった」
「あっ、あの!」
「ん? 何か用か?」
 男が足を止めて振り返る。
 クロノは一瞬考え、そして尋ねた。
「あの……ここってどこですか?」
 すると、男は奇妙な物でも見るような顔で肩をすくめた。
「どこって、トルースの裏山だろ」
「えっ……!? トルース、の……?」
 クロノは絶句した。トルース近辺に魔物が出るなんて話、聞いたこともない。いや、そもそもこんな裏山だってなかったはずである。
 ―― どういうことなんだろう? 同名の、別の場所なんだろうか。だけど、他にトルースなんて所、あったっけ?
 戸惑っているクロノに、男が言った。
「なんだ。もしかしてあんた、道に迷ったのかい? だったらついてきなよ。とりあえずトルースまで案内してやるから」
「あ、いや……その……」
 トルースならよく知っている。知っているけど。
 どう説明したものか悩んだ末、クロノは言った。
「……お願いします」


 川沿いを進む道すがら、男は自己紹介した。名をトマといい、旅の探検家だという。言われてみれば、動きやすそうなジャケットに何やら色々入っていそうなザックを背負った格好はいかにもそれらしい。ここには宿の主人に頼まれて薬草を取りに来たのだが、その帰りにたまたまクロノを見つけたということだった。
「で、あんたは? 見たところあんたもよそ者らしいが、こんな物騒な時分にどうしてここへ?」
「あ、オレはクロノっていいます。……けど、物騒な時分って……?」
 クロノは首を傾げた。確かに祭りの時には喧嘩や騒ぎも起りやすいが、物騒という言葉はそぐわない。不思議そうにしていると、トマは呆れた様子で、
「おいおい、そんなことも知らないのかよ。どっから来たか知らないが、随分とのん気だな。今、この国ゃ魔王軍との交戦真っ只中じゃねえか」
「ま……魔王軍!?」
 クロノは思わず目を丸くして叫んでいた。
 魔王軍といえば、遥か昔、ガルディアと激しいせめぎ合いを続けた魔物の集団だ。『魔王』と呼ばれる存在 ―― 太古に失われ、今では魔族にしか扱えないという『魔術』に秀で、闇の力を自在に操ったらしい ―― を頂点に、その勢力は世界各地へと侵略の手を伸ばした。それに対抗すべく立ち上がった王国軍との間に起きた戦乱は、十数年間にも及んだと伝えられている。
「で、でも、それって何百年も前の話じゃ……」
「何百年も前? なに寝惚けたこと言ってるんだよ。今だよ、今!」
「えっ? だって」
 言いかけて、クロノはふと頭を巡らせた。どうもおかしい。話が噛み合っていない。
 ガルディア……いや、おそらくこの世界の人間ならば、およそ小さな子供でも魔王軍との戦いの話は知っている。『数百年前の戦いの上に現在の生活が成り立っており、建国祭にしても、戦没者を悼み祭る意味も込められている。だからその事実をゆめ忘れず、平和な世に感謝しなければならない』……そんな説教を誰もが繰り返し聞かされて育つためだ。
 だが、トマは魔王軍が『今』存在していると言う。もしかしたら復活したのだろうか?
(だけど、それにしちゃ妙だよな。今の口ぶりじゃ、まるで『過去に魔王軍が現れたことなんてなかった』みたいな言い方……)
 ―――!?
 ある考えに思い至り、クロノは息を呑んだ。
 それは突拍子もない発想だが……まさか、あるいは。
「……念のため訊きますけど」
 クロノは思いきるように言った。
「今はいつ……いえ、王国暦の何年ですか?」
「はあ?」
 トマはいかにも訝しげにクロノを見た。そして当然のことと言わんばかりに答えたのだった。
「そんなの、六〇〇年に決まってるだろ」と。
「……六〇〇年……」
 呆けたようにクロノは呟いた。
(やっぱり、そうか……)
 勘は間違っていなかった。……ここは、過去の世界なのだ。丁度四百年前、魔王軍が席巻しようとしていた頃の。
 にわかには信じがたいが、トマが嘘をついているとは考えにくかった。そんなことをする必要性は全然ないし……何よりここが過去のガルディアだとすれば、気候が違うことも、自分の知らないこんな裏山があることも、魔物に襲われたことも、すべて説明がつく。
 ―― でも……それじゃ、どうやって戻ればいいんだろう? 
 正直、クロノは途方にくれてしまった。あの妙な歪みは消えてなくなってしまった上に、後を追うと言っていたルッカにしても、本当に来ることができるとは限らない。何しろ、きっかけになったペンダントは自分が持ったままなのだから。
「まったく変な奴だなぁ。……まあいいや。それで? どこへ行くつもりだったんだい?」
「え? あ……」
 トマの言葉に、クロノは我に返った。
 そうだ。それより、とにかく今はマールを探そう。ここがそんな危険な時代なら、なおのこと早く見つけないといけない。
「どこへ、というわけじゃなくて、人を探してるんです」
「人探しか」
 トマは顎を擦った。
「どんな奴を探してるんだ?」
「オレと同い年ぐらいの女の子なんですけど」
 クロノが答えたとたん、トマは面白がるような目つきになった。
「ほう、女の子。恋人かなんかかい」
「ち、違いますよ、友達です!」
 慌ててクロノは首を振った。
「この近くにいるはずなんですけど、トマさんは見かけませんでしたか? 金色の髪をこう高く結った……」
「金色の? この近くで? ……おい、待てよ。ひょっとしてあんたが言ってるのって、リーネ王妃のことか?」
「リーネ…王妃?」
 町の広場と同じ名前だな、とクロノは思った。そういえば、リーネの鐘の名は人の名前からとられたものだとどこかで聞いた気もする。
 だが、そのことについてじっくり考えるような暇はなかった。もっと気になる言葉がトマの口から発せられたからだ。
「ああ。ずっと行方不明になってたんだが、今日、ここの裏山で見つかったって…」
「そ、その人、今どこに!?」
「どこって……そりゃあ、城に戻ってるだろうさ」
 勢い込むクロノに気圧されぎみに、トマは答えた。
「ほら、ちょいとばかり遠いが、あそこに見えるだろ?」
 そうして指し示した先には、なるほどやや離れているものの、木々の合間に見え隠れして居城がそびえていた。
「だけどおまえさん、王妃のことを友達ってのはどういう……おい! どこに行く気だ!?」
「お城ですよ!」
 クロノは駆けながら、背中へかかった声に振り向いてみせた。
「教えてくれてありがとう!」
「お、おい……!」
 止めるいとまもあらばこそ、クロノは一陣の風の如く走り去っていってしまった。
「………おかしな奴………」
 あとにはただ、呆気にとられたトマが立ち尽くすばかりだった。




<オマケのあとがき>

(1)クロノくん、災難続きですねェ……(しかも次の話(エピソード6)でも災難は続く) 何故か書いてる内に流れでなんとなく(殴) 強く生きろよ、少年(笑)。

(2)私の設定では「中世と現代での貨幣は、その価値だけではなく、貨幣そのものが異なる」ということになってます(実際の歴史などから考えても、四百年間まったく貨幣が変わらないというのは妙だと思うので)。そのためクロノを店の類に入らせるわけにはいかず、それ故ゲーム通りに「トマに酒をおごる」ということもできません; で、トマはこういう形でひょっこり登場させました。

(3)ここら辺の話、実はかなり悩みまして。というのも、いつどうやってどの程度クロノに状況を把握させて、どのように城に向かわせるかがなかなか決まらなかったのですよ……。ゲームではそれこそ行ける場所が限られてますので、大したヒントがなくても話を進められますが、小説ではある程度行動に理由を持たせないと説得力なくなりますから。いえ、これでも説得力不足という気はしますけど(汗)(この話のクロノ、やけに察しが良すぎる気が;)

(4)襲ってきた魔物ってのは要はジャリーです(笑)。ゲームのまんまじゃユーモラスすぎて緊迫感なくなるし、やっぱ多少は怖くしないとね、ということで。


 TO BE CONTINUED >>> (本編第二章・2)

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