● 命の別名 / 3 ●




 海峡から漂う潮の香りが風に乗り、髪に絡みつく。
 打ち寄せる波音が遠くから近くから重なり響き合い、とめどない輪唱を成している。
 マールに連れられてやってきた岬は、足場は広くなく、断崖絶壁といってもよかった。眼下には青灰色の海が横たわり、彼方の対岸には、ゼナンの橋で結ばれた向こうの大陸の端がかすんでいた。
「いい眺めね」
 岬の縁に立ち、マールはクロノの手をようやく離して、遠くを見遣った。
「でも、少し残念だわ。晴れていれば、もっとはっきりあちらの大陸を見ることもできたのに」
 ダンスのステップを踏むような軽やかな足どりで、クロノをそこに残し、身体を翻す。
 事情を知らぬ者が見たならば、恋人同士が睦まじく戯れているとでも思っただろう。
 そして、マールの口調もその内容も、何ということのない世間話そのものだ。
 彼女が本当に話したいことはそれではない、とクロノは確信していた。
 何を話したいのか、全てを思い出したというなら、『彼女』が思い残した大切なことというのが何なのか、聞きたいことはいくらでもある。こちらから積極的に尋ねてみればいい。それはよくわかっていたが、クロノはそうできずにいた。
 どういうわけか、首の後ろがちりちりと総毛立つような、嫌な感触が止まらない。
『彼女』の執着を知り、それを解消することは、望むところだというのに。
 そのためにこそ ―― それ自体が目的というよりも、手段の意味合いが強いにせよ ―― 昨日からずっと奔走してきたのに。
 知りたくない、知ってはいけない、と心のどこかが警鐘を鳴らしている。
「……ねえ。この場所、覚えてる?」
 マールは大きく深呼吸するように両腕を広げた。
 あどけない笑顔。無邪気なその仕草。
 それは、あたかもマールが元に戻ったかのようでいて、決定的に何かが違った。
 何が違っているのかはわからない。
 しかし、クロノにはわかった。これはマールの中にいる『彼女』が言っているのだと。
 それに、『彼女』の話すこの場所を、クロノは知らない。サンドリノを訪れたことは何度かあるが、こんな外れの岬にまでは足を伸ばしたことがなかった。記憶にある限り、今が初めてのことだ。
 にもかかわらず、そんなふうに訊くということは。
(別の誰かと、オレを混同している……?)
 その推測を裏付けるように、『彼女』は言葉を続けた。
「忘れてなんかいないでしょう? 覚えてるわよね。―― だって、ここはあなたが私を裏切った場所なんだから」
「……裏切った?」
「とぼける気!?」
『彼女』から笑顔がかき消え、峻烈な憎悪の視線がクロノを焦がした。
 背筋を怖気に震わせたくなる血走った目は、けれども、クロノではなく、クロノに重ねた何者かの幻影を見つめているようだった。
 腕輪のはまった手首を、『彼女』は自分の胸にそっと押し抱いた。
「そうよ……誰よりも信じてた。心から、愛してた。……それなのに、あなたは私をここから突き落とした。その両手で!」
 クロノ自身のことを示しているわけではないはずなのに、言葉のひとつひとつが心を突き刺し、深くえぐった。激しく怒りを発露させていながら、『彼女』は今にも泣き出してしまいそうに見えた。想い人に裏切られ、命を失った痛みと悲哀を撒き散らして。
「だから……今度は私の番」
 朗々と謳い上げるように、『彼女』は天を仰いだ。陶酔しきった双眸に、昏い狂気の炎が踊る。
「あなたも同じ目に遭わせてあげる。あの時と同じ、この場所で。私のこの手で」
「…………っ!」
 クロノは声を無くし、反射的に身構えた。
『彼女』はことさら勿体をつけるように……今から『私』が『あなた』に報復するのだと、こちらに確実な理解をもたらそうとするように、どこか芝居がかってさえいる歩調で近寄ってくる。
 ともすれば度を失いそうになる胸の内で、クロノは必死に思考をめぐらせた。
 抵抗しようと思えばできるだろう。二人の間には歴然たる体格と力の差がある。油断しなければ、押さえ込むのはそう難しくないはずだ。
 だが、『彼女』の執着を晴らすためには ―― マールを元に戻すためには。
(思いを遂げさせるしかない……か)
 クロノは横目にちらりと岬を見下ろした。海面ははるか下にあり、断崖の根元に波頭が砕け、白いしぶきを弾けさせている。泳ぎは得意な方だが、この高さだとただでは済まないに違いない。おそらく『彼女』が亡くなったのも、ここから落とされたせいなのだろう。運に頼るのは、分が悪いどころか分がなさそうな賭けだと思える。
 ―― それでも、マールを助けられるなら。
 もう一度、マール自身に出会える可能性があるのなら。
 クロノは覚悟を決めた。
『彼女』が目の前に迫り、この上もなく愛しげな手つきで、憎しみをまとった腕をさし伸ばす。
 構えを解いて、クロノは無為の姿勢をとった。
「……いいさ。やりたきゃやれよ。その代わり」
 自分でも意外なほど静まり返った心の中、ただひとつの激情を込めて『彼女』を見据える。
「マールを解放するんだ。マールを返せ。―― 絶対にだ!」
 叫んだ瞬間、『彼女』は妖艶に唇を歪ませた。凄絶なまでの微笑は、マールでは決してあり得ない。あってほしくない。
 記憶の中の、屈託ない笑顔を無意識のうちに脳裏に描き ―― クロノはそのまま宙を舞った。
 華奢な腕に見合わぬ膂力で、『彼女』はためらわず彼を突き飛ばしていた。


   ***


 彼が視界から消える。
 ほんのまばたきの一瞬で。永遠のような一瞬で。
 伸ばした両手には、服越しに触れた体温が、ほのかに残っている。
 まるで、その温もりを奪い去ったのは他ならぬおまえなのだと、主張するように。
「……ノ……」
 かすれた声が乾いた唇から洩れる。
 得体の知れぬ何かが身体から抜けて、がくりとその場に膝をついてしまう。
「……クロノ……」
 彼の名を、呼んだ。
 誰よりも大好きな、彼の名を。
 自らが崖下へと突き落とした、彼の名を。
「うそよ……。そんな……」
 だめ、とずっと心で叫び続けていた。
 やめて、とずっと止めようとしていた。
 自分自身を ―― いや、マールの中にいた、別の誰かを。
 でも、止められなかった。
 そして、彼は ―― クロノは ――
「……いや……いや、いやあああっ!! クロノ……クロノ――ッ!!」
 マールは嗚咽で咳き込み、悲痛に声を嗄らした。
 ニ度と味わいたくなかった喪失感が、真っ黒に胸を塗りつぶしていく。
 遠くに行っちゃだめだよと、いつかマールは彼に言った。
 それなのに、彼を遠ざけたのは……遠くに彼を追いやったのは ―― 私。
 心を打ちのめす事実に、彼女はただ涙を零すしかなかった。


   ***


「……ふう。間一髪ってところだったわね」
 シルバードの操縦桿を握りしめながら、ルッカは肩の力を抜いた。
 食堂で事情を聞いて嫌な予感に突き動かされ、慌てて上空から二人を探したのが効を奏したといえる。己の判断の正しさに、ルッカは満足感を覚えた。
「感謝はするけど、早いとこどうにかしてくれ……」
 お世辞にも格好良いとはいえない上下逆さまの体勢で、クロノはぼやいた。
 そんな彼を腰抱きにして両腕でかかえているのはエイラである。
「エイラもちょっと重い。みんな手伝え!」
「ハ、ハイ」
「おお、悪い」
「…………」


   ***


「マール!」
 クロノは岬の先端に立ち尽くすマールの背に呼びかけた。
 彼女は腕輪をはめたまま海を見下ろし、なんだか今にもそこから飛び降りてしまいかねない雰囲気だった。
 ―― まだ元に戻ってないのか?
 凍りつくような悪寒が体中を汚染する。
 マールがゆっくり振り返る。
 その顔に、信じられないものを見る驚きが広がり、やがて、喜びと涙でくしゃくしゃになった。
「クロノ……!」
 駆け出し、一直線に彼の胸に飛び込んでくる。
「クロノ、クロノ……!! ごめん……ごめんなさい……っ」
「……マール。マール、だよな? 本当に、本物の」
 おそるおそる尋ねると、彼女は肩に額を擦りつけて、何度も大きくうなずいた。
「良かった……」
 わんわん泣きながらごめんなさいを繰り返すマールを、クロノは強く抱きしめた。
「……マール! クロノ!」
 シルバードから先んじて飛び出したクロノを追いかけて、仲間たちがやってくる。
 クロノは途方もない安堵で泣きそうな顔で、皆に笑い返した。


   ***


 王国暦一〇〇〇年。
 かつてサンドリノの村があった地は、今や巨大な森の一部となっている。
 交易路の変化で寂れ、忘れられていった村を静かに包み、一体化させた木々は、中世のある女性とその夫、そして何よりロボの尽力で育て上げられたものだ。
 鳥が歌い、花が薫り、風がゆるやかに舞う。
 そんな森の片隅に、クロノたちは来ていた。
 あの腕輪を土に埋め、墓碑の代わりに小さな苗木を添える。
 騒動が済んだ後、マールが提案したのだ。
『ロボが育てた優しい森なら、サンドリノと同じ場所だし、きっとあの人も安らげると思うから』と。
 ルッカたちが聞いた話によれば、腕輪の持ち主はあの食堂で働いていた少女で、名のある家柄の青年と付き合っていたらしい。彼からの贈り物だという腕輪をとても大事にしていて、身分の違いはあっても幸せそうだった、と老婦人は語った。しかし、数年前に少女は海へ転落するという『不幸な事故』で亡くなり、相手の青年もそれから間もなく魔王軍との戦に巻き込まれ、この世を去ったとのことだった。
 クロノたちには、その青年の真意はわからない。
『彼女』の言った通り、手酷い裏切りだったのかもしれないし、それとも、やむにやまれぬ事情があったのかもしれない。
 真実は、本人のみぞ知るところである。
 ―― 身分違いの恋、か。
 クロノは声に出さずに呟いた。
 もしかしたら、男女は逆でも似た立場の自分たちに、『彼女』は共感する部分があったんだろうか。
 それも今となっては本人にしかわからないことではあるが、普段全くといっていいほど意識しない身分差というものに、思いを馳せる。
 すると、マールが彼の考えを読んだかのように手を握ってきた。
 曇りそうになる心を綺麗に拭うように、にこりと微笑んでみせる。
 マールを取り戻せたのだと実感できるその笑顔が、彼を力づけた。
 ―― オレたちはオレたち、だよな。
 手をしっかり握り返し、クロノはマールに応えた。
「……行こう」
 促し、『彼女』が眠る地を後にする。
 振り返ると、苗木の墓標が手を振って見送るように、そよ風に揺れていた。


 −END−



<オマケのあとがき>

『フォーチュンクエスト』のドラマCDを聞き返したのがきっかけで思いついた話。バイト編おまけシアターで、ヒロインのパステルが呪いの剣に操られてしまうというコメディがあるんですが、それを聞いてて、呪いのアイテムで何か話つくれないかと妄想こねくり回してたらこうなりました。設定的に『魔法戦士リウイ』やSO2の公式短編小説の影響も受けてるっぽいです。なので、世界自体はクロノでも、これってクロノの世界観やキャラで有りなのか……?という気も。つか、固有名こそ出してないものの、『彼女』が目立ちすぎ。当初はアイテムやモンスターに近い扱いのつもりだったのに、ふと気づいたら予想外にクロノと語り合っちゃっててオリキャラ化してますがな。汗。……ちなみに、『彼女』はマールのクロノを好きだという想いに共鳴したために、クロノを想い人と重ねる言動をしていたということに自分の中ではなってます。

例によって例の如くクロノ×マールではありますが、珍しくパーティキャラ総出演です。なんか魔王が妙によく喋ってるなーと思いつつ。彼って書くのが難しくていつも扱いに悩むんですが(だから『仲間になっていない』設定で書いてる時が多い)、今回みたいに解説者的ポジションを振ると案外動かしやすいのかも、と思いました。まあ、魔王は某DBのどこぞの大魔王の人ほど饒舌ではないでしょうけど爆。あ、そうそう、魔王がわりと協力的だったのはマールのことだったから、と考えるとさりげなく魔王→マールという解釈も成り立ちますのでよろしく。(←?)



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