● Pre-contact /1 ●




 ねえ、クロノ。
 あなたとは、リーネ広場で出会ったよね。

 本当は私、秘密にしていたことがまだあるの。
 ずっと言葉にする勇気がなくて。
 全部、自分の見た夢に過ぎなかったんだって、わかってしまうのかもしれない。
 ただの勘違いなのかもしれない。
 そう考えたら、確かめるのが怖くて、言えなかった。

 「もしかしたら」って思ったこと。
 「私、あなたを知っている」って感じたこと……。


   ***


 色濃く樹木生い茂る森の中、宙を舞う魔物の鉤爪が音を立てて閃く。
 他の魔物に矢を引き絞ろうとしていたマールを狙ったその一撃を防ごうと、クロノはとっさに間に入り、彼女を背にかばった。
「クロノッ!」
 悲鳴に似た声が上がる。
 眼前に刀をかざすことで直撃は避けられたが、かわしきれなかった余波がクロノの右頬に真紅の線を走らせた。
 痛みに短く舌打ちして、彼は刀を斜めに振り下ろした。白刃のきらめきが魔物を袈裟懸けに襲う。そこにすかさず目標を切り替えたマールの矢が射られ、魔物は成す術なく崩れ落ちた。
 直後、残った魔物たちはロボとルッカの連携攻撃の前に敗れ、あるいは逃げ去った。
 それを見て、クロノは息をつき、刀を収めた。

 王国暦六〇〇年。
 クロノたち四人は、ガルディア城に向かっている。
 地中深く息を潜め、一九九九年に世界を壊滅状態へと追い込む存在『ラヴォス』。それを生み出したのは、この時代 ―― 中世の世界を脅かし、ガルディアと交戦し続けている魔王であるという。ならば、魔王を倒せば、あるいは未来を変えることもできるはず ――。
 そう考えたクロノたちは、トルースの村で耳にした「魔王を倒す勇者が現れ、王に謁見するため城に向かった」という噂を頼りに、その勇者にあって協力を求める(あるいは自分たちが魔王討伐に協力する)べくガルディアの森を進んでいたのだが、そこへ今のように魔物たちが襲ってきたのだった。

「いてて……ちくしょう」
 クロノは指で頬に触れてみた。思ったよりも深くえぐられていたらしい。
「大丈夫?」
 マールが心配そうに顔を覗き込む。
「今、回復するから。じっとしててね」
 返事を待つ間もなく、マールは彼の頬に手を差し伸べた。唇が小さく言霊を繰ると、添えた指先に淡く柔らかな光がともる。覚えたての治癒呪文だ。
「……ケアル……!」
 発動した魔法がたちまち痛みを退かせ、傷口をふさいだ。
 クロノはにっこり笑って応えた。
「サンキュ。便利だよな、この呪文」
「ワタシのケアルビームよりも効果が高いようデス」
 ルッカと共に二人の側にやってきたロボが言った。
 彼も治癒効果のある光線を発する機能を持っているが、確かに、呪文の方が即効性に優れているようだ。ロボの『ケアルビーム』は体力回復効果を併せているものの、瞬時にして傷を無くすほどの効力ではない。
「ん……でも、流れた血までは元に戻せないから。ちょっと待ってね」
 マールはポケットを探り、レースに縁どられた純白のハンカチを取り出した。
「クロノ、拭いてあげるからこっち向いて」
「え、いいよ。それ汚れちゃうだろ」
 クロノの言葉に、マールではなく、ルッカが笑って手を振った。
「そうそう。どうせまた怪我するに違いないんだから、わざわざこんなののために使うことないわよ」
「……そういう言い方はないだろ」
「何よ、汚れるって言い出したのはあんたでしょ?」
 いつもながらの掛け合いに、マールはくすくす笑った。
「別に汚れてもいいの。どうせ私、いつも自分ですぐ汚しちゃうんだし」
 まだ何か言いたげな二人に構わず、ハンカチでクロノの頬を拭う。
「はい、終わり! ……あれ?」
「ん?」
「どうかしマシタカ?」
 首を捻ったマールに、ロボが尋ねた。
「これ……傷、残っちゃってる」
「え、どれ?」
 ルッカが覗き込んできたので、マールは指でなぞるようにクロノの頬を示した。
 すると、
「ああ、なんだ」
 ルッカは苦笑した。
「あ……ひょっとして、マールが言ってるのって、これ?」
 今度はクロノが指で傷跡をたどった。右頬に細く走った、よくよく見なければほとんど目立たない白い痕だ。
 マールがうなずいてみせると、クロノは小さく笑った。
「これはさっきのじゃないよ。ずっと前の傷」
「ずっと前の?」
「そう。昔……」
「クロノが記憶喪失になった時の、ね」
 ルッカがにやりとして口を挟んだ。
「もっとも、その振りをしてただけかもしれないけど」
「違うって!」
 勢い込んでクロノは否定した。
「オレはあの時のこと、本当に……」
「はいはい、そういうことにしておくわね」
「あのなー!!」
 飽きもせず、再び埒もない口論が続く。
 だが、それはマールの耳には届いていなかった。

 ―― 頬の傷……記憶をなくした男の子。……夕焼け色の、髪……。

 言葉の断片が頭を巡る。にわかに心臓が騒ぎ出す。

「……マール? どうしたの?」
 怪訝そうなルッカの声。
 マールは我に返った。
「え? う、ううん、なんでもない。それより、記憶喪失って何のこと? 昔、何があったの?」
 できるだけ平静を装って、マールは二人に向かって訊いた。
 そんな彼女に、ルッカはほんの少し訝しげにまばたきしたが、クロノは全く気づく様子もなく、屈託ない口調で話し始めた。
「えっと……あれっていつだったかな。たぶん五、六年前だったと思うけど」
「五年前よ。私が十四の時だもの」
 ルッカがさらりと付け足すと、クロノは呆れ顔になった。
「人のことまでよく覚えてるよな、おまえ。……うん、そうだ。五年前、って言ってもオレたちの時代から数えてだけど、ちょうど今いる、このガルディアの森で……」

 ―― 五年前……ガルディアの森。
 まさか。でも、もしそうだとしたら。
 ……ううん、そうじゃなかったとしたら?

 マールは早鐘となって打ち続ける鼓動を感じながら、ただひとつの出来事を思い出していた。
 五年前、ガルディアの森での出来事を。


   ***


 その日、マールはこっそりと城を抜け出して、ガルディアの森をひとり散歩していた。
 それは何も今回が初めてのことではなかった。誰かを供に連れなければ城門から出ることができない……いや、お供がいてすら滅多に出られない生活に、活発な質の彼女は幼い頃からずっとうんざりしていた。そこで、庭で行なっている弓術の訓練の時に、教師の目を盗んでは度々こうして森へ息抜きに来ていたのである。

 握りしめた両手を天に突き上げ、マールは大きく伸びをした。
 初夏の、緑が濃くなった葉と葉の合間から仰げる空は、真っ青に輝いている。
 肌を撫でていく微風はわずかに湿った土の匂いを運び、葉ずれの音と鳥たちの声が、心地よく耳を和ませる。
 こんな日には、少し足を伸ばしたくなっちゃうな、とマールは思った。
 森に来たことは何度もあったが、いつも今ぐらいの距離で引き返している。そうでなくては訓練の時間が終わるまでに城へ戻ることはできないからだ。
 きっと弓術の先生は、本当は自分がこうして抜け出していることをちゃんと知っているに違いない、と彼女は考えていた。なのに見て見ぬ振りをして咎めないのは、必ず決まった時間に帰るから。だからこそ、こんな風にちょっとだけお姫様をサボることを見逃してくれているんだ、と。
 けれど、快い空気は、十をようやくひとつ越えたばかりの少女をそそのかすのに充分だった。
 たまには……ほんの少しなら、いいよね。遠出しても。
 心の中で誘惑が甘く囁く。
(うん。帰り道、すごく急げばなんとか間に合うはず。だから……) 
 自分を納得させる言い訳に強くうなずき、マールは軽やかに駆け出した。

 そうやって行くうち、ふと見上げた木の上で……彼女は、その少年を見つけた。


   ***


 鮮やかに白い鉢巻をひるがえして、少年は高く立ち並ぶ木々のひとつに駆け上がるような勢いでよじ登った。息を整えながら張り出した枝に立ち、森の入口の方を大ざっぱに見渡す。
 ……この分なら大丈夫、かな。
 人影らしきものが見当たらなかったことを確認して、安堵の息を吐き出すと、彼は梢に腰を下ろした。

 彼の名はクロノ。十二歳である。
 クロノは今、発明好きの幼なじみから逃げてきたところだった。

 半刻ほど前のこと。
 彼は自宅の庭で、日課の木刀の素振りをしていた。
 ……が、一旦手を休めて、額の汗を拭ったちょうどその時、玄関口の方から母のジナと幼なじみとの話し声が聞こえてきたのである。
「あら、ルッカ。どうしたの? クロノにご用?」
「こんにちは、おばさま。……ええ、彼にちょっと協力してほしいことがあって」

 そこまで聞いたクロノは、慌てて家の裏手に回り、二人に見つからないよう逃げ出した。
 それというのも、数日前からルッカが家にこもってまたなにやら作っているということを知っていたためだ。
 『協力してほしいこと』イコール『実験台になること』であるのは、もう何回となく発明品の試動に付き合わされて、その度ろくな目をみたことがないクロノには容易に想像がついてしまった。
 かくて彼は、物心ついた時からのなじみの遊び場にして隠れ家、ガルディアの森へと駆け込んだわけである。

 ―― あいつ、オレのことを実験動物だとでも思ってるんじゃないか?
 クロノはため息をつき、膝だけを枝に引っかけてぶら下がった。逆さまになった景色が、瞳の中で揺れる。
「あーあ。どうするかなぁ……」
 家にはしばらく戻れそうにない。
 かといって、他の友達のところに遊びに行こうものなら、ルッカと鉢合わせになる危険性もある。
「……しょうがないな」
 呟き、クロノは勢いをつけて体を起こした。
 逃げる時につい持ってきてしまった木刀 ―― 今は腰に結わえ付けてあった ―― に視線を落とす。
 夕暮れまで、ここで稽古の続きでもしてようか。
 そう決めて、飛び降りようとしたとたん。
「ねえ!」
 真下からいきなり声がした。
 クロノは驚きのあまり硬直して、バランスを崩した。
「わ、うわわわわっ!?」
 焦って手を振り回しても重力には逆らえず、そのまま落下してしまう。
「キャッ!!」
 呼びかけてきたその誰か……金髪を結った少女が両手で顔を覆うのを目の端に映し、クロノはそれでもどうにか足から着地することに成功した。
 しかし、着地点が良くなかった。ちょうど木の根が出っ張った部分だったのだ。
 まずいと思った時には既に遅く、足は滑り、そして ―― 

 ごづん。

 頭に響く鈍い音を聞いたのを境に、彼の意識は途切れた。



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