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「ね、ねえ。大丈夫?」 マールは目の前で木の根に頭をぶつけてのびてしまった少年――クロノの傍に座り込んで、彼の身体を軽く揺さぶった。 驚かせるつもりは全くなかった。ただ、この森で見知らぬ人間、それも同世代の子供に出会うことなど今までなかったから、好奇心で声をかけてみただけだったのだけれど。 「う……うー…ん……」 喉の奥で唸り、クロノがまばたきをした。マールの表情がパッと明るくなる。下手をすると、このまま目を覚まさないんじゃないかしら、と思っていたのだ。 「あ……良かった! 気がついたんだね」 祈るような仕草で胸に手を当てて、マールはぺこりと頭を下げた。 「ごめんなさい! 全然、びっくりさせようなんて思わなかったんだけど……」 「……?」 ゆっくり上体を起こして、クロノは首を傾げた。後ろ頭をさすりながら辺りを見回し、ふと、という感じでマールに目を留める。 「……きみ、誰?」 「え?」 マールは面食らって顔を上げた。 「あ……えっと、私はマールディア。マールディアっていうの。……あの、怒ってないの?」 戸惑いつつ言うと、クロノはますます不思議そうな顔をした。 「怒るって? どうして? 何を?」 「だ、だって、私が声かけたせいで、あなた、木の上から落ちちゃったでしょ?」 「ふーん……そうなんだ。ああ、だから頭が痛いのかな」 得心がいったとばかり、うなずくクロノ。 変なの、とマールは思った。 ついさっきのことなのに、まるで覚えてないみたい。 「ところで、もうひとつ聞きたいんだけど……」 若干ためらうように、クロノは呟いた。 「ぼくは……どこの、誰なのかな」 「え……っ?」 マールはポカンと口を開けた。 「今、何て……?」 「だから……ぼくは、どこの、誰なのかなって」 「え……えええっ!? わからない、の……?」 クロノは小さくうなずいた。 「思い出せないんだ。どうしてここにいるのか……ここがどこなのか。自分のことも、何も……」 「そんな……そんなことってあるの?」 マールが呆然としていると、クロノは困ったような笑みを浮かべて、頬を掻いた。 「『あるの?』って言われても……。実際、思い出せないんだし」 「…………」 「でもさ。きみはぼくのこと、知ってるんだよね?」 「えっ? う、ううん、ごめんなさい! 知らないの」 マールは慌ててかぶりを振った。 クロノはきょとんとして、 「あれ? だって、さっきぼくに声をかけたって」 「そ、それは……あのね、私、この森で自分以外の人を見かけるのって初めてだったから、どうしてここにいるのかなって思って」 しどろもどろになりながら、マールは答えた。 「だからあなたの名前も知らないの。今、初めて会ったんだもの」 「そう……そっか」 それきりクロノは黙り込んだ。ひどく途方にくれた瞳で、抱えきれない落胆をもてあますようにうつむいて。 それを見た瞬間、言葉は、考えるよりも先に少女の口からこぼれ出た。 「ねえ、私と一緒に、お城に来ない?」 「……お城? きみと、一緒に?」 クロノの目に戸惑いの色が浮かんだが、マールは続けた。 「そう、一緒に。私、お城に住んでるの。私はあなたのこと知らなかったけど、お城に行って他の人に話を聞いてみたら何かわかるかもしれない。だから、行こ?」 「……いいの?」 「うん、もちろん!」 マールは快諾した。 この少年を連れて帰れば、抜け出していたことが明らかになって、こっぴどく怒られるのは目に見えている。でも、だからといって、今ここでどうして彼のことを見捨ててしまうことなどできるだろう? 「遠慮なんてしなくていいから。……ね」 立ち上がり、少年の手をとる。 「うん……ありがとう」 赤ん坊が笑うように嬉しそうに、クロノは微笑んだ。 「あのさ、マール。きみはここで何してたの?」 森林の中の小道を二人並んで歩きながら、クロノが尋ねた。 マールは首を傾げ、 「散歩だけど……その『マール』って?」 「あ、ごめん。だって、マール…ディア、だったっけ? それ、ちょっと長くて言いにくいから」 「言いにくい?」 マールは目を見張り、次の瞬間、思わずぷっと吹き出した。 「えっ、なに? ぼく、何かおかしいこと言った?」 「ううん、なんでもない」 ―― 言いにくい、なんて言われたのは初めてだった。 そんな愛称のような名で呼ばれることも、城ではありえない話だ。 マールはなんだかくすぐったいような、妙に嬉しい気持ちになった。 「マール、か……。いいね、その呼び方」 「?」 クロノはわけがわからず、目をぱちくりさせた。 そんな彼に、ますます楽しげにニコニコしてみせるマールの胸元で、ペンダントが木洩れ日を受けて輝いた。 「……それ、綺麗だね」 「え? あ、これのこと?」 マールはペンダントを軽く持ち上げた。 「誉めてくれて、ありがと。これ、母様の形見なの」 「お母さんの?」 「うん……母様もね、その母様 ―― 私にとってはおばあ様だけど ―― から受け継いで、そうやってずっと昔から受け継がれてきたものなんだって。だから、すっかり古ぼけちゃってるんだけど……」 「すごく、大事なものなんだね」 継ぐようにクロノがうなずくと、 「そう。とっても大切なの」 マールは抱きしめるようにペンダントを手で包み込んだ。 ……と。 その時、ガサッと大きな音がして、すぐ脇の茂みから何かが飛び出してきた。 「キャッ!?」 マールのすぐ足元をかすめて、通り抜けていく。 とっさにクロノは木刀を抜いて構えていた。 だが、それの正体を見極めたとたん、肩の力が抜ける。 「……なんだ、ウサギか」 ウサギは別の茂みに再び飛び込んで去っていった。 クロノは木刀を腰に戻して、小さく息をついた。 「人騒がせだよね。マール、大丈夫?」 「うん……」 マールは少し驚いた様子でクロノを見つめた。 「どうかした?」 「あ……剣を使えるのかな、と思って」 マールは彼のベルトにくくりつけられた木刀を指さした。 記憶をなくしているのに、ということもあったが、おおよそ呑気そうで、悪く言えば頼りなさげなこの少年が剣を扱うというのは、正直意外な気がした。しかも、それでいて構えは様になっていた。初め木刀を目にした時は、てっきり男の子にありがちな遊び道具だとばかり思っていたが、必ずしもそうではないのだろう。 剣術と弓術という違いはあれど、師について習っているマールには、彼が誰かの手ほどきを受けた経験を持っていることがなんとなくわかった。 「うーん……今の、無意識だったから……っ!?」 クロノは首を捻りかけて、目を見張った。 「危ない!!」 「…?」 きょとんとするマールを、クロノはかばうように押しのけた。 瞬間、歯を強く噛み鳴らす音が響き、マールがそれまで立っていた位置に新たに茂みから飛び出してきた生き物が着地した。 野犬だった。 黒く獰猛そうな体躯。後ろ足で立てば、大人の背丈ほどもありそうだ。 「……あ……」 マールが怯えて後ずさった。 野犬はさっきのウサギを追いかけてきたのかもしれない。 だが、その獲物を見失ったためか、攻撃目標を目の前にいる人間と定めたようだ。鋭い牙をむいて、じりじりと二人との距離を狭めてくる。 クロノは再度木刀に手をやろうとして、しかし途中でその手を止めた。マールが後ろから腕を引っ張ってきたのである。 「逃げよう!」 言うやいなや、マールは走り出した。 クロノは手を引かれていきなり方向転換させられる形になったので、危うく転んでしまいそうになったが、どうにかマールに追いつき並走した。 背中からは吠え声が追いかけてくる。二人は振り向く余裕もなく、ひたすら全速力で森の中を駆けた。 そうして走って走って、どのぐらい走った時だっただろうか。 「あっ!」 低く垂れ下がった枝の隙間を縫って走る途中、マールが短く叫んで振り返った。 つられて振り返り、クロノは何があったのかに気づいた。枝にペンダントを絡めとられて落としてしまったのである。 マールは躊躇した。戻るか、あるいはこのまま逃げて後で取りに来るか。 ……が、次の瞬間、足は思わず止まっていた。 気づいた時にはクロノがペンダントの所まで戻っていたのだった。 「待って、危ないよ!」 マールの制止も聞こえていないかのように、彼は襲い来る野犬の攻撃を巧みにかわしてペンダントを手にした。それから超特急でマールに追いつくと、呆気にとられているマールに向かって息切れしながら叫んだ。 「マール、その先、右に曲がって!」 「う、うん」 戸惑いつつもうなずき、マールは言われた通りに走った。 すると、曲がったとたん、クロノは彼女を抱えるようにして横っ飛びに茂みへと身を躍らせた。 「きゃ……!?」 「しっ」 葉と枝の中で、唇の前に指を立て、クロノはマールが体を起こさないように頭を押さえた。 (いいって言うまでこのままでいて) 自分自身も身をかがめ、小声で囁く。 息をひそめる二人のすぐ傍を、足音と鳴き声が猛烈な勢いで駆け抜けていき、やがて遠ざかって聞こえなくなった。 (…………) (…………) (…………もう、大丈夫かな) 身動きさえもはばかられる沈黙の後、クロノは静かに茂みから顔を覗かせた。周囲を一通り見渡し、安全を確認してから、ほっとして立ち上がる。 「もういいよ、マール。あいつ、行っちゃったみたいだ」 「本当?」 おそるおそるマールも起き上がり、大きくため息をついた。そのまま何度か深呼吸を繰り返すと、ようよう心臓も落ちつきを取り戻していった。 「はぁ……良かったぁ……」 「あ、そうだ」 クロノは握りしめていたペンダントをマールに差し出した。 「はい、これ」 「あ……ありがとう」 マールは受け取ったペンダントとクロノの顔を交互に見つめた。 「どうして取りに戻ってくれたの?」 信じられないものでも見るように、呟く。 ところが、クロノは事も無げに笑ったのだった。 「だって、大切なものなんでしょ? ついさっき言ってたじゃない」 「え……それだけ? それだけで……?」 「……他に理由って必要なの?」 何のてらいもない、きょろんとした目で言う。 マールは実感した。 彼は本当に、それだけの理由で戻ったんだ。危険を冒すのも構わずに、ためらうこともなく。 とくん、と胸が奥の方で不思議な音を立てた。 (なんだろう……?) これまで経験したことのない気持ちが、燠火となって心で瞬く。 この少年のことを知りたいと、強く思った。 失われた記憶を取り戻したいと、強く思った。 それは単なる好奇心とも、責任感とも違う気がした。 >>> Pre-contact/3 <<< Pre-contact/1 |