● Pre-contact /3 ●




 ともあれ、城に帰ろうと歩き出した二人だったが ―― しかし、なかなかたどり着くことはできなかった。
 もともと道を思い出すことができないクロノは言うに及ばず、マールも無我夢中で逃げていたために、見慣れた街道から外れてしまって、どの辺りにいるのか見当がつかなくなったのである。
 それでもマールは逃げてきた道をさかのぼっているつもりで先導して歩いていた。
 だが、緑は次第に濃くなるばかりで、踏み分けた道も細く心もとなくなっていく。
 ……どこかで間違えたのかな。
 不安になり、マールは辺りを見渡した。周囲は一面木々が立ち並んで枝葉が空を覆い尽くしており、いつもの行動範囲内にいるならば、どこからでも目に入るはずの城の尖端さえ見つけられない。
 やっぱり、間違えたんだ。
 そう思うと胃の辺りに重い感覚がのしかかる。
 でも、と彼女は持ち前の前向きさで気を取り直した。……それなら引き返して、またさっきの所からやり直せばいいんだよね。
 自分に言い聞かせて、回れ右をする。
「どうしたの?」
「ごめんね。道、こっちじゃなかったみたい」
 つとめて明るい調子でマールは答えた。
「だから、少し戻ってもいい?」
「うん。いいよ」
 特に疑念をもった様子もなく、クロノは了承した。
 今通ってきたばかりの道をたどり、二人は黙々と歩いた。
 しかし、歩けども城は一向に見えてこない。
 それどころか、引き返しているつもりでさらに別の道へ分け入ってしまったみたいだ、とマールは思った。何せ縦横に広がる森林は天然の無限回廊と変わらず、どこもかしこも似通って見える。
 
 迷った……?
 
 焦燥で鼓動が早まった。
 そんなはずない、と必死に考えようとしても、不安は膨らみを増す。
 そうするうち、やがて見たこともない崖が行く手を阻み ―― マールはついに、途方にくれてへたり込んだのだった。
(……嘘でしょう?)
 泣きたい気持ちになる。
 いっそ、泣いてしまおうか。
「マール?」
 何も知らず、クロノがただ不思議そうに目を覗き込んだ。
 震える声を抑え、マールは彼に告げた。
「……迷っちゃった、みたい……」
「え?」
「わからないの。どっちに行けばいいか。どうすれば城に戻れるのか……全然、わからないの……っ」
 口に出してしまえば、もう我慢することはできなかった。
 ポロポロと、拭っても拭っても涙が溢れてくる。
「どうしよう。どうしたらいいの? 私……どうしたら……」
 それはクロノに対する問いかけではなく、彼女自身に対する問いかけだった。
 何度繰り返しても、答えの出ない問い。
 自分が行方知れずになったことがわかれば捜索もされるだろうが、はたして見つけてもらえるものだろうか? こんな広い森の中で。そもそも、ガルディアの森に自分がいることさえ、城のみんなは知らないに違いないのに。
 絶望的な気分で、マールは声を上げて泣くしかなかった。
 ……しかし。

「マール。お城って、大きいんだよね?」
 クロノが間近にあった大樹を見上げて、いきなりそんな台詞を投げかけた。
 突然の、しかも意図のつかめない質問にマールが泣きじゃくるのも忘れてポカンとすると、クロノは返事を待たず、またたく間にその木を登っていった。
 唖然としているマールをよそに、彼はてっぺんに到着して四方を見渡した後、枝を器用に伝って危なげなく地上に降り立った。
「見えたよ。ずっとあっちの方に見えた大きな建物、たぶんお城だと思う」
 そして、マールの前にしゃがみこんで笑いかけた。
「ちょっと遠いけどさ。でも、今みたいに方向を確かめながら行けば、ちゃんと着けるんじゃないかな」
 だからきっと大丈夫だよ、とクロノは手を差し伸べた。
「……うん……」
 その手をとって立ち上がりながら、マールは再び胸の奥底で、とくん、と音がするのを聞いた。
 さっきよりも、なんだか大きく強い音だった。



 いつのまにか日は陰り、空には暗雲が垂れ込めていた。
 重く湿った空気を震わせて、遠くから地響きに似た音が鳴る。
 降り出してきそう、とマールは思った。
 城からはもうさほど離れていないはずの分かれ道にさしかかった時、その予感は当たった。

「雨だ」
 冷たい感触を手に受けて、クロノが天を仰いだ。
 初め遠慮がちに落ちてきた雨粒は、やがて勢いを強めた。木陰を伝うように移動しても、容赦なく水滴は体を濡らし、目を開くこともままならなくする。
 二人は雨足の弱い場所を求めて、葉の密集した枝の下に身を寄せた。
「ひどいな」
 クロノは目に張りついた前髪を手ぐしで後ろに流した。
「寒い……」
 白っぽい息を吐き、マールは自分の肩を抱きしめた。
「どこか、もっと雨の当たらないところがあるといいんだけど」
 と、クロノが分厚い雨のカーテン越しに目を凝らした。
「ねえ、マール。あそこ……」
「?」
「ほら、あの岩のところ。穴みたいなのがある」
 マールは瞳を細めて、彼の示す方向を探した。
 確かに、壁のようにそびえた岩棚の裾に、ぽつんと黒くうがたれた何かがあった。
「ほんとだ」
「あそこに行ってみよう。ここよりマシかもしれない」
 近づいてみると、その穴は意外に大きなものだった。天然の洞穴のようで、屈まなくても入ることができる。おまけに子供二人ならば並んでも幅に余裕があり、奥の方まで続いているようだ。
「これなら雨宿りできそうだね」
「うん。……でも、城の近くにこんな所があったなんて……あれ?」
 マールが洞窟の奥を見つめて首を傾げた。
「ねえ、あっちの方、なんとなく明るいと思わない?」
「そういえば……」
「もしかして、他に誰かいるのかな」
 マールの目に興味が浮かんだ。
 城までもうすぐだという安心感も手伝って、生来の好奇心が触発されたのである。
「ここで黙って雨がやむのを待っててもつまんないし、ちょっとだけ確かめに行ってみない?」
「ん……そうだね。見に行ってみようか」



 驚いたことに、進むにつれて天井は高くなっていった。
 道は分岐のない一本道だったが、ところどころで曲がりくねっている。
 そのうちにマールたちは広い行き止まりに突き当たった。
 小さなホールのようになった空間には、天井にも壁にもびっしり苔が張りつき、ほの青く輝いていた。
「すごい……これが光ってたんだね」
 生まれて初めて目にする幻想的な光景に、マールはぼうっと見惚れた。
 ……だから、地面の方に視線を落としたクロノが不安げに見つめるものにも、すぐには気がつかなかった。

「マール……ひょっとしたら、ここって」
「……え?」
 我に返り、クロノを見る。
 彼の目線をたどると、その先には寝床のように集められた草の葉と動物の短い毛、食べ物かすが散らばっていた。
「! ……まさか……」
「出た方がいいよ」
 だが、その言葉も既に遅かった。
 背後から唸り声が聞こえて、二人は凍りつく。
 ずぶ濡れになった黒い野犬 ―― おそらく先刻と同じ奴に違いなかった ―― が、道をふさぐ形で立ちはだかっていた。
「……っ」
 マールは思わずクロノの腕にしがみついた。
 これでは逃げ場がない。袋のねずみも同然だ。
 ―― と。

「逃げて」
 マールの指を振りほどき、クロノが言った。野犬からは目をそらさず、左手に木刀を握りしめる。
「ぼくがあいつの気を惹く。だから、その間に」
「えっ? で、でも」
「いいから、早く!」
 叫んだ瞬間、野犬が飛びかかってきた。
 臨戦態勢のクロノではなく、無防備に立ち尽くしていたマールを狙って……!
「や……」
「マールッ!!」
 
 真紅の線が宙を走った。
 突き飛ばされて尻餅をついたマールの前に、血が滴り落ちた。
 ―― クロノの右頬から流れた血が。

「あ……ぁ……」
 マールは涙をにじませて震えた。恐慌で目の前は真っ白だった。
「……行け」
 頬を手の甲で無造作にこすり、クロノが野犬に向き直った。
「早く行け!!」
「………!」
 びくりと身をすくませ、マールはよろめくように立ち上がった。
 そして、振り向かずに外へ向かって走り出した。



 誰か。
 誰か、助けて。
 あの子を、あの男の子を、誰か助けてあげて!
 
 マールは涙でひりつく喉を押さえながら、必死で足を動かした。
 どんなにどしゃ降りでも構わない。とにかく、早く外に出て、助けを呼ばなきゃ。
 やけに長く感じられる通路の先に、ようやく出口が見えた。
 その時。

『……うわぁっ!!』
 
 後ろから、悲鳴がこだまして届いた。足が止まる。振り返る。

 ―― 間二合ワナイ ――
 
 頭の中で何かが弾けた。
 次の瞬間、マールは迷わず駆け出していた。
 今来た道を、彼の元へと。



「ぐ……っ」
 組み敷かれ、肩口を前足で押さえつけられて、クロノは身動きできなかった。
 牙が喉に届くのはなんとか木刀で防いだものの、押し切られるのも時間の問題だ。右腕にまで手傷を負わされてしまったのは、二重の意味で痛かった。野犬は着実に力を込めて噛みつこうとしてくる。競り合いも既に限界だった。
 もう……だめか。
 クロノはぎゅっと目をつぶり、観念しかけた。……が。

 ごっ。

 鈍い音がして、直後、野犬の鳴きわめく声が洞窟内に響いた。のしかかっていた足の力が抜ける。
 クロノは驚いたが、そのまま反射的に野犬をはねのけた。そして見た。通路に凛々しく立ったマールを。
「その人から離れなさい!」
 威厳にさえ満ちた声で、朗々と彼女は言い放った。
 石をぶつけられた痛みにのたうっていた野犬が、怒りに燃えさかる目を上げる。
 ……まずい!
 クロノは急ぎ体勢を整え、地を蹴った。
 刹那、牙が弾け飛んだ。木刀の一撃が、見事、野犬の顎に叩き込まれたのだ。
 キャン、と高いうめき声をもらし、背から地に落ちる。
 形勢不利を悟ったのか、野犬はそのまま尾を巻いて逃げ出した。
 
 そして、洞窟に静寂が訪れた。
 クロノたちは力なく座り込んで顔を見合わせると、なんとなく笑い合った。



 後から負傷した右腕の方が頬の傷よりも痛々しかったので、マールは持っていたハンカチを結んで包帯の代わりにした。
 その間、クロノはずっと無言だったが、応急処置が終わった時、静かに口を開いた。
「……どうして戻ってきたの?」
 責める口調ではなかった。単純に、疑問を口にしている風だ。
「ぼくは逃げてって言ったのに、どうしてわざわざ……」
「……それは……」

 ―― 助けたいと思ったから。
 ―― 自分だけ逃げるなんて、やっぱりイヤだったから。

 ううん、たぶん、それよりも。

「……怖かったの」
「怖い?」
 意味を測りかねて、クロノは眉をひそめた。
 マールはそっとうなずくと、自分で自分の気持ちを確かめるように言った。
「あなたが死んでしまうかもしれないって思って、すごく怖かった。あなたがいなくなるのが怖かった。……叫び声が聞こえて……『間に合わない』って思って。気づいたら、ここに戻ってた」
「…………」
「……ごめんなさい」

 言われたことを守らなくて。 
 自分のせいで、こんな酷い目に遭わせて。

「本当に……ごめんなさい」
 両手を膝の上で握りしめ、マールは睫毛を伏せたが。
「なんで謝るの?」
 クロノが優しく言った。マールが驚いて目を上げると、彼は表情を和ませた。
「謝ることなんてないじゃないか。それどころか、ぼく、お礼を言わなくちゃ。……ありがとう。もしマールが戻ってきてくれなかったら、危なかった」
 ぱちくりとまばたきするマールを見つめ、破顔する。
「カッコ良かったよ」
「……え?」
「さっき、ぼくを助けてくれた時のマール。すごくカッコ良かった」
 少年はちょっと照れくさそうに鼻をこすった。
 その頬には、紅い傷跡。

(私を守ってくれた、しるし……)

 それはまるで、遠い昔話に語られる、勇者の証のようにも見えて ―― マールはごく自然にその証に口吻けていた。
 
 わずかな沈黙。

「……マール?」
 クロノが右頬を押さえて、ぼんやり呟く。
 マールは今の自分の行動に戸惑ったように立ち上がり、彼に背を向けた。
「えっと……ここ、もう出ない? もしかしたら、またさっきの犬が戻ってくるかもしれないし」
「あ……ああ、うん」
 惚けた顔で、クロノは手を下ろした。



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